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宮柊二の歌集「山西省」
来源: 发表时间:2010-02-10 浏览:7860

宮柊二(1912-1986)の歌集「山西省」

 中日戦争を描く小説、戦後派の作品は中国で多く翻訳、紹介されたが、短歌の戦争文学は中国でまだほとんど紹介されていない。生と死、運命を凝視する一兵士の心境、中国侵略の一兵士として華北の山西省へ来て4年間戦っていた実感を詠む作品。
   
 宮柊二は、新潟県北魚沼堀之内町「丸末書店」の長男として生まれる 20歳の時、家運の衰退と失恋から上京する。仕事を転々とするうち1933年北原白秋を訪ね、秘書を勤めるようになる。1939年27歳で、就職後すぐに応召され、独立混成第三旅団に加わって中国山西省へ来た。1943年の召集解除までの長い期間、山西省の険しい山山で苦しい戦いを続け、歌い続けた。戦後の1949年になってこれらを第二歌集「山西省」として刊行した。この27歳から31歳までの戦場記録は戦争文学?戦場詠としても、また宮の生涯に底深く流れつづけた生き方の基調としても、極めて重要な歌集である。それは戦争記録といった域を超えて、絶えず死に隣りしつつ生の厳粛を体験し、それを短歌という形態のなかで表現したものである。「一兵士として運命を見ようと思って」山西省の厳しい条件の下で参戦し、前線の生活の中で自らの運命を短歌で詠んだ。
   
 宮柊二所属の部隊は北支那方面軍、独立混成第三旅団、歩兵第十大隊(810人ほど)第二中隊だった。1940年4月から第25期旅団長は山田三郎少将で、司令部は山西省の崞県(今の原平市 崞陽県)にあった。警備担当区域は繁峙、五台,寧武、神池、五塞、河曲、保徳、嵐県、静楽、原平、偏関、忻州…山西省北部の長城地域だった。 
   
 1937年10月13日――11月3日、山西省北部の忻口戦と1937年10月13日――26日、東部の娘子関攻防戦で、閻錫山の晋綏軍と衛立煌の中央軍は山西省の南部へ敗走してしまった。日本軍の指揮者は第五師団長板垣征四郎(1885-1948)。1937年11月8日、太原陥落。だから、宮柊二の部隊の主な作戦の対象は共産党が指導する八路軍だった。
   
 宮柊二は、山が多い、旱魃が深刻な山西省に来た。始めに、“汾河のほとりに下りいゆく绵羊の群れ”“氷りたる汾河の砂地”などの平和な風景を見たが、残酷な戦争と非業な死がいつも人々を睨んでいる。
   
        暗谷(くらたに)に昨夜墜(よべお)ちゆきし馬思(も)へば  
   
             朝光(あさかげ)ぬちに寄り合ひし馬
   
        拙译:昨夜战马坠暗谷,今朝天明马相偎。 
   
 険しい太行山の山道を行軍して、輜重隊の戦馬が荷物ごとで、深く暗い谷に墜落してしまった。翌朝、ほかの馬は昨夜の恐怖をまだ忘れていない、朝日を浴びて寄り合っている。宮柊二たちの日本兵も恐怖に慄いているであろう。
   
        麻の葉に夜の雨降る山西の
   
                山ふかき村君が死にし村
   
        拙译:麻叶地头听夜雨,怜君一命丧山村。  
   
                      ――《黄河》より 
   
 1940年 麻は 菊科の一年草、経済植物。皮から繊維をとり、織物、糸、蚊帳などをつくる。
   
 日本軍ははるばると中国の奥地の山西省まで戦いに来た。黄河のほとりの深い山の中の村で、戦闘のあと、宮柊二は戦死の兵士の遺体を見て悲しんでいる。雨に濡れた麻の葉から雫が落ち、宮柊二の目から涙がこぼれている。
   
        自爆せし敵のむくろの若かるを
   
              哀れみつつは振り返り見ず
   
        拙译:哀其年少不忍睹,自杀爆炸一敌兵。
   
                   『断片』より 1941年 
   
 注釈 1、せし:した。 2、 むくろ: 「躯」死体。3、 若かる :形容詞の連体形、あとは「人」、あるいは「顔」のような体言が省略されている。 
   
 勇敢な八路軍の兵士は、死んでも捕虜になりたくない。最後まで戦っていた。自ら手榴弾の安全装置を解除して自殺した。宮柊二たちの日本兵はその八路軍の若い兵士の死体を見て、哀れと敬畏のほかに、恐怖も感じさせられた。
   
     心痛のあまり、その若い顔を見るに忍ばないのである。
   
        秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾
   
               落ちつぐ中にわれは死ぬべし
   
        拙译: 敌军手榴纷纷落,红光裂秋雾。吾命丧此处。
   
                   ――《断片》より 1941年
   
 宮柊二の部隊は、突然、八路軍の襲撃を受けた。深い秋の霧の中で、敵兵の人数、位置などが分からないまま、手榴弾攻撃を蒙った。霧さえ裂けられた。日本兵の肉体も裂けられた。自分の周りに雨のように落ちてきた手榴弾はこわい。宮柊二は今日、ここで命を失うだろうと絶望を感じた。
   
        装(そう)甲(こう)車(しゃ)に肉(にく)薄(はく)し来(きた)る敵兵の
   
              叫びの中に若き声あり
   
                      『断片』より 1941年
   
        拙訳   扑向装甲肉搏戦, 敵兵呐喊声年軽。 
   
 宮柊二は真実そのままに残酷な戦闘場面を描いている。敵兵の中国兵士の勇壮な姿、日本兵の真実の内心。この歌を読むと、私たちの耳元に「中華人民共和国国歌」が響いているような気がする。中華民族は自分の血と肉で新しい長城を築きあげた。
   
        鉄板にあつまる弾丸の固き音
   
             さむざむと近し六人の膚に
   
        拙译: 声声近,槍弹驟撃装甲板, 六人皆胆寒。
   
       
   
        泥濘に小休止するわが一隊
   
             すでに生きものの感じにあらず
   
        拙译:泥泞之中小休憩,全队颓然如死尸。
   
                     『中条山脈』より1942年   
   
 1941年5-6月、日本侵略軍北支派遣軍は中国の国民党軍に対して「中原会戦、中条山戦役」を行なった。ここは太行山脈の一翼である。日本軍第36,37,41師団などの兵力は合わせて3万5千人だった。日本軍は十の飛行中隊の支援の下で山西省、河南省、陝西省の境で衛立煌の第14集団軍と曽万鐘の第5集団軍を迅速に殲滅した。国民党の10万人の兵士は死亡者が4万人で、捕虜になった人が3万人だった。 
   
 宮柊二の部隊もこの戦役に参加して中条山に入った。“信号弾闇にあがりて”、“山鳩が啼く”、“戦火を浴びて”などの実感があった。激戦の後、宮柊二の中隊の全員は恐怖と疲労で死骸のように泥沼に横になった。 
   
 1943年11月4日,宮柊二は山西省の寧武部隊本部の西野曹長からの電話で、先生北原白秋の訃報を聞いた。信じられないという感じだった。
   
        こゑあげて哭けば汾河の河音の
   
               全く絶えたる霜夜風音
   
                     ――《塞下悲報》
   
        拙译:失声恸哭汾河畔,不闻涛声秋夜风。
   
 秋の夜,宫柊二は先生の死を知り、一人で汾河の岸の岸辺に行って声をあげて泣き出した。秋風の号泣の聞いていたが,汾河の波の音が聞こえない。1939年、宮柊二が召集され、歩兵二等兵として従軍する時、北原先生は「戦争で死ぬな」とおっしゃった。
   
        耳を切りしヴアン·ゴッホを思ひ孤独を思ひ
   
              戦争と個人をおもひて眠らず
   
        拙訳 憶梵高, 割耳朵 。孤独,戦争和人。 浮想連翩,輾転難眠。 
   
 宮柊二は真実そのままに残酷な戦闘場面を描いている。敵兵の中国兵士の勇壮な姿、日本兵の真実の内心、芸術を愛する作者の苦痛…60十年後の中国の若者に大きな感動を与えたのである。戦争時代、両国の若者、赤の他人は突然、敵同士になり、運命に翻弄され、互いに殺しあう羽目に陥った。『山西省』を読んで、戦争の本質、生と死、人生と芸術…考えさせられた。今、60年前の日本の一兵士の肉声が中日両国の読者の心に強く応えている。 
   
 ヴアン·ゴッホはオランダの画家で、1888年35歳の時、精神疾患にかかって自分の耳を切りおとした。二年後、拳銃で自殺。宮柊二は苛烈な戦争の環境の中で、自分の神経もヴアン·ゴッホのように崩壊してしまったと思った。
   
 日本文学史という授業の目的は、文学作品を通じて日本民族を心を理解するのである。歴史認識、戦争認識は今後の中日両国の平和と友好を築き上げる大事な条件であろう。より多くの中国の人々に宮柊二の『山西省』を紹介したいと思う。
   
    日本「建設政経新聞」より 2004/07/01